天守台はじめ本丸・二の丸に壮大な石垣群が残る
関ヶ原の戦いの戦功により、黒田孝高 ・長政親子に筑前が与えられた。二人が領国経営の利便性を考えて、古代の迎賓館 ・鴻臚館 がおかれた所に慶長6年(1601)、福岡城築城の工事を始め、ここが明治まで黒田氏の居城となった。
幅50mを越える内堀で本丸、二の丸、東二の丸、南二の丸などを囲み、中枢部は総石垣造りであった。
大天守・中天守・小天守が連なる巨大な天守台が築かれたが、天守が建てられたという事実はいまだ確認されていない。城内にはかつて40基以上の櫓 が曲輪 の要所要所に建てられていたが、今残るものは南ノ丸多聞櫓、伝潮見櫓などごくわずかである。